二人のとある一日

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桃歌がすばらしく手の込んだお菓子を作るとき。
それは危険を告げるひそかなシグナル。

「うわ」

苺々は冷蔵庫を開けたまま立ち尽くした。そこに自分が主役だとばかりに鎮座していたのはケーキだった。小さなホールの、まっしろな、それはそれはすばらしく美しいデコレートが施されたケーキ。よろり、苺々は後ずさる。そのまま呆然と冷蔵庫のドアを閉めた。きれいなケーキだった。すんごいきれいなケーキだった。いつもより明らかに手がかけられていた。


*


「…どうしよう」

命からがらリビングへと戻ってきた苺々は、クッションを抱え込みソファの上で丸まっていた。自分は何か、仕出かしてしまっただろうか。頭をフル回転させる。

「駄目だ。思い当たることがありすぎる」

それはどうかと思うが、緑の瞳、緑の髪、緑の服を着た、緑の耳の、まるでカエルみたいな少女は真剣そのものである。途方に暮れた表情でソファに沈むカエル少女。彼女のまなうらに浮かぶのは、ひとりの少女。銀色の髪、琥珀色の瞳。いつも穏やかに笑みを浮かべている彼女の同居人。そして、彼女――苺々の、この世で唯一大切な、愛する人でもある。

「桃歌……」

穏やかな少女……桃歌は、怒るということをしない。いや、苺々の部屋が余りにも汚かったり、苺々の女遊びが余りにも酷かったり、彼女が余りにも自分の体を大事にしなかったりすると、彼女だって怒る。しかしそれは、「叱る」と言うもので、どちらかというと苺々の為に行っているものだ。決して、桃歌自身が腹が立ったからだとか、桃歌自身が悲しかったからではない。つまり、桃歌は自分の負の感情を、感情のままに出すことができないのだ。彼女が苛立ってるからなどという理由では、彼女は爆発することができないのだ。そして、その感情がどこに向かうかというと――お菓子だ。彼女の大好きなお菓子作りに没頭することで、彼女は感情を吐き出すのだ。

苺々は、それに気づかないほど鈍感ではなかったし、桃歌を愛しているが故に、彼女の感情の機微な変化にも気付けた。それに、相手の行動パターンがある程度理解できるくらいには、二人は共に時を過ごしていた。


冷蔵庫の中の、あのケーキを思い出す。職人が作った装飾品、あるいは最上級のレースかのごとく、美しくクリームがデコレートされたケーキだった。波打っていた、花咲いていた、渦巻いていた。……クリームが。あの精巧さから考えて、桃歌の溜まったフラストレーションはかなりのものだろう。どうしようどうしようどうしよう怖い。考えるんだ、何が彼女をこうまでさせてしまったのか。


半ば蒼白になりながら必死に記憶をたどる苺々。その上に、ひとつの影が落ちた。

「あれえ苺々ちゃん。今日はお仕事じゃなかったのー?」

ふんわりと、気持ちよく気の抜けた声。牛の耳と角と尻尾。桃歌その人である。

「と、桃歌っ!」

ぴしゃんと苺々の背筋が伸びた。深い翠玉のような瞳は、怖々と目の前の少女へ向かう。その少女はというと、頭には三角巾、大きなポケット付のエプロン、手にははたきという、今どき珍しいほどの完全お掃除ルックで、まあるい目を苺々に向けていた。

「あああええと、はい今日は仕事が早く終わったんですよ。それより桃歌、掃除ですか?」

見れば分かるだろうに。上ずりすぎて頭のてっぺんから出ているような声で、苺々は言った。その額には、冷や汗すら見える。すぐにくすくすという声が聞こえ、苺々はびくりと震えた。

「苺々ちゃんどうしたの? 敬語になってるよお」

桃歌は楽しそうに笑う。人前ではいつも敬語を、表情を崩さない苺々。そんな彼女がそれを崩すのは、心を開いた桃歌の前でだけだ。それが急に敬語に戻り、しかし表情は崩れまくっているので、桃歌は思わず笑ってしまった。

「あ。いやこれは何でもない…わよ。そ、それにしても桃歌。あなた最近、その、どう? 疲れは溜まってない?」
「……どしたの苺々ちゃん? わたしは見ての通り、げんきだよお」

首をわずかに傾げきょとんと苺々を見つめると、軽く踵を上げガッツポーズする桃歌。いつもの苺々なら、可愛い! なんて言いながら、彼女に飛び掛っていたかもしれない。だが、今日は、それとは正反対である。桃歌が元気に振舞えば振舞うほど、苺々の表情は固まる。

「さ。わたしは掃除の続きするから。苺々ちゃんは、そこで休んでて!」

そんな彼女に気づいたのか気づいてないのか。桃歌は口元に笑みを湛えたまま、掃除を再開しようとする。苺々は反射的に立ち上がった。桃歌の手からはたきを取る。

「桃歌が休んでて。たまには私がやるから」

え。え。と繰り返す桃歌を苺々は無理やりに座らせる。そしてテレビの電源を入れ、リモコンを彼女の手に握らせ、ついでにテーブルの上の文庫本も適当にページを開いて彼女に押し付けた。最後のおまけに、さっきまで彼女が抱いていたクッションも。

「さ。さ。休んで!!」
「は、はあ……」

訳の分からない桃歌に、異様に張り切る苺々。珍しく元気に動き回る緑色の同居人を、桃歌は珍しそうに眺めた。


*


苺々の掃除はすぐに終わった。家事好きな桃歌がいるので、この家はいつも綺麗なのだ。仕方なく彼女のいるリビングに戻る。

「桃歌! 他にやることはない? 洗濯物取り込もうか? それともおつかいに行こうか? あ、肩揉んであげる!」

こんなことで、彼女の気持ちが晴れるとは限らない。しかし何かしなければと必死だった。あの桃歌の誰の心も溶かしそうな笑顔にだって、今日は裏があるように感じてしまう。というか、桃歌が笑顔でいればいるほど怖い。

なんとも危機迫ったような苺々の表情に、桃歌は首を傾げる。

「ぇ、もうなにもないけど……。本当に苺々ちゃんどうしたの? 熱、ある?」
「い、いやっ。いつも桃歌にはお世話になってるからっ。あ、そうだ。今晩私が夕飯つく……あ、いや、どこかに食べに行こうか?」

途中で言葉を変えたのは、苺々の料理ははっきり言って不味いからだ。


苺々は思いつく限りの全ての提案をした。
思い出す。今までに桃歌にかけた心配の数々を。迷惑の数々を。ステーキにして食べるなどと言い、彼女を縁日で買ったこと。彼女に惚れ込み、彼女をこの家にずっと居させていること。仕事に明け暮れ、いつも一人で寂しい思いをさせていること。それなのにたまに女遊びをして朝帰りすること。体の心配をさせていること。酔っ払った自分を介抱させていること。家事全部をさせていること。たまに苛々をぶつけてしまうこと。彼女を抱いていること。彼女を心底頼りにし、依存し、すがり付いていること。……それでも、笑っている彼女。私に、安らぎを教えてくれた、笑うことを教えてくれた、生きることを教えてくれた、大切な、大好きな桃歌。

「……え? だって。忘れたの、苺々ちゃん」

桃歌の澄んだ瞳が、苺々を覗き込む。お互いに、きょとんとする。そんな時間がしばらく流れ。……それをくずしたのは、桃歌だった。

「そうだねえ。じゃ、家を出て?」

桃歌がにっこりと笑って言った。苺々がぶはっと吹いた。何かが来るとは思ったが、まさか家を出ろだなんて。桃歌の怒りの大きさを思い知る。苺々はしなしなのよれよれになりながら「はい……」と呟いた。とぼとぼと玄関に向かうその背に、「夜になったら戻ってきていいよ」と桃歌は声をかけた。


*


「おかえり、苺々ちゃん!」

桃歌の弾んだ声が、恐る恐る玄関に足を踏み入れた苺々を迎えた。桃歌の手が、苺々の手を取りリビングまで引っ張って行く。オレンジの優しい光の方へ向かってゆく。そして、

「ほらっ、苺々ちゃん!」

苺々を迎えたのは、いつもより少し豪華な料理。それから、

「見てこれ。すっごくがんばって作ったんだよー!」

その料理の真ん中に、自分が主役だとばかりに鎮座しているのは、白くて波打って花咲いて渦巻いた、美しい装飾品か最高級のレースかのような、あのケーキだった。

「18歳のお誕生日、おめでとう!」

桃歌が満面の笑みでそう言った。ああ、ああ。そういえば。すっかり忘れていた。今日は私の誕生日じゃないか。

「な、な、なんだ……」

苺々はその場にへたり込む。何ということだ。あの世にも美しいケーキは、桃歌の感情の捌け口ではなく、自分を祝うためのものだったのだ。桃歌は怒ってはいなかったのだ。苺々の視界がゆるく滲む。桃歌の前でしか、見せることができないそれ。

「桃歌…桃歌……大好き!」

苺々は桃歌を引き込んで一緒に倒した。思い切り、力の限り抱きしめる。心から愛しい、心から大好きな少女を。抱きしめられた桃歌は、目を白黒とさせながらも、仕方がないなあ、今日だけ特別だよと、目の前の少女を優しく抱きとめる。

二人のささやかで盛大なバースデーパーティーは、今始まったばかり。
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